水野酒店について

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 当店の歴史

店舗の写真  当店は福井で代々個人商店を行っています。そこで、当店の歴史を記す前に、先代、先々代のことから説明いたします。

 先々代 武二 の時から当店の歴史が始まります。先々代は福井市の郊外 にある三屋町から分家して福井の中心部に出てきました。先々代はばくちと 酒と女を好み一夜にして全財産をばくちで取られたと思えば、次の日には それをばくちで取り戻してきたとか言う昔話を父に聞いた記憶があります。 その先々大も40歳のとき、料亭で大酒を飲んで芸者遊びをしていたとき倒れて そのまま還らぬ人となりました。本当かどうか定かではありませんが、品物を並べれば売れるような 時代で、商売で儲けたので、議員に立候補しようという打ち合わせかたがた料亭にいたということです。

次に事業を継いだのは先代 武士(たけし)でした。 先々代が急死したため、武士は17歳で家の諸々を受け継ぐことになりました。 当時の先代の商売は、統制物資のマッチとアサヒビール(これも特約商品のため 福井県でビールを扱っている商店は少なく、福井市近辺では独占状態だったのではないか と思います。ちなみに、武生市近辺ではリンクページにある「鎌仁商店」さん がアサヒビールの特約店で、この2商店で福井県嶺北地方のアサヒビールの扱い のほとんど全てを行っていました)でした。 戦後の物不足も手伝い、統制物資のマッチは特に大いに儲かり、莫大な財産を 築いたと聞いています。一方のビールの商売は需要がまだ余り大きくないので、 マッチほどは儲からなかったということです。それでも独占的に売れて 競合するところが無く、利益は結構取れたそうです。 儲かったので結婚前から愛人を何人もつくったり、酒を飲んで遊びまくったりと、今から考えると 良くも悪くもとんでもない時代だったのではないかと思います。運転免許もないのに自動車を買って 乗り回していたとも聞いていて、私が小さいころに聞いたときは事業で儲けてはいても、 あまり尊敬できる祖父ではないなあと思っていました。

それでもその事業にも転機が訪れました。先代は福井のマッチ全てを独占したいと考え、 鎌仁商店さんの先代と取引をしました。鎌仁商店さんの持つマッチ市場を先代が もらう代わりに、先代が持っていたアサヒビールの市場を鎌仁商店さんに譲る というものでした。すったもんだの末、先代は鎌仁商店さんの持つマッチ市場を 受け取り、アサヒビールの福井での特約権を鎌仁商店さんに譲りました。 しかし、その数年後にはマッチの統制が解け自由化を迎えるため、マッチで儲ける ことはできなくなります。 また、その頃起こった福井震災がさらに追い討ちをかけます。震災の混乱を逃れるため、 扱っていた全ての品物をある人物に託して、震災の被害を免れた武生市の倉庫に預けることになっていました。 でも後に、その品物は武生市の倉庫に預けられず、全てどこかに紛失していました。 先代は震災のドサクサに気をとられ、取り込み詐欺にまんまと引っかかってしまったのでした。 先代はその手筈をとった人物に全てを任せていたため、それらの品物は ひとつも武生の倉庫にはなく、倉庫自体も存在していなかったとの事でした。 さらに、震災で自身の店舗が火事の火元とされ (後の消防の調査で、実際には当店から出火したのではないらしいのですが、 マッチを扱っていたため槍玉にあがったらしいのです)、 近隣に大変な額の賠償をしなければならなくなりました。 大富豪の生活から一転して借金だらけの一文無しに転落してしまったのです。

そんなときに当家を支えてがんばったのは、妻の よし子 でした。武士の妻は32歳で死亡した為、 よし子が三ツ屋町の隣村、海老助町から当家に手伝いにきていました。男1人で子供たちもまだ 小さかったので、(死亡当時、現在の店主 武三 はまだ2〜3歳、姉は5〜6歳)大変助かったと いうことです。そして、結婚しました。(家には内縁関係の妻が出入りしてはいたみたいですが...)そして、よし子は朝から夜中まで良く働いたそうです。(つづく)




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